読了目安:約7分
映像編集でも音源のボーカル編集でも、たまに、正直かなり状態の悪い素材が届くことがあります。ノイズだらけだったり、音程がかなり怪しかったり、画がブレていたり。それでも、できる限りの処理をして、なんとかギリギリ見られる、聴けるところまで仕上げます。
そのとき、しばしば起こることがあります。提出したものに対して、まさにその「頑張って持ち直した部分」を、名指しで指摘されるのです。
正直、複雑な気持ちになります。素材がどれだけひどかったか、そこにどれだけの処理を積んだかは、相手には見えていません。見えているのは、仕上がった結果だけです。だから、指摘されること自体は仕方がないのですが、その一点にたどり着くまでの過程が、まるごと無かったことになっているような感覚になります。
こういう場面に何度か遭遇して思うようになったのは、多くの人は、目の前にある結果だけを材料にして判断しているということです。これは想像力が無いというより、そもそも「見えているものだけで判断する」という習慣が、多くの人にとってごく自然な状態なのだと思います。過程を想像するというのは、実は少し特殊な、意識してやらないと発生しない行為なのかもしれません。
これに気づいてから、私は何かの出来事に触れたとき、最低でも3つの視点を持つようにしています。たとえば、先ほどの「直した部分を指摘される」場面であれば、こんな具合です。
まず一つ目は、素直な感情です。頑張って直したのに、と思う気持ちをそのまま認めます。二つ目は、相手の立場です。相手は素材の状態を知らないので、見えている結果だけを基準に、悪意なく指摘しているだけかもしれません。持っている情報が違うだけで、判断そのものは自然な反応です。三つ目は、もう少し引いた視点です。結果だけで判断してしまう癖は、その人自身も、普段どこかで結果だけを見て評価される立場に置かれているからかもしれません。
この3つを並べると、最初の苛立ちに近い感情は、そのままの強さでは残らなくなります。
おそらくこの習慣は、自分自身が「過程をほとんど見てもらえない仕事」を長くやってきたことから、逆に育ったものだと思います。どれだけ手を尽くしても、見てもらえるのは常に結果だけ。だからこそ、他人の言動の裏にある見えない過程を、想像する癖がついたのかもしれません。
大した話ではなく、これができると自分の気分が少し楽になる、という程度の個人的な習慣です。


