音楽クリエイターの村脇優です。
今回のテーマは[st-marumozi fontawesome=”” bgcolor=”#f3f3f3″ bordercolor=”” color=”#000000″ radius=”30″ margin=”0 10px 0 0″ myclass=””]ブログタイトル[/st-marumozi]です!
是非最後までお楽しみください!
目次
音楽賞レースの盛衰・権威の盛衰
日本の音楽賞レースと言われて何を思い浮かべますでしょうか。
- 日本有線大賞
- 日本レコード大賞
- ベストヒット歌謡祭
- FNS歌謡祭
- 日本ゴールドディスク大賞
etc…
現在も賞レースとして存在するものや、形を変えて音楽番組として残るもの、姿を消したものなど日本には様々な形で音楽賞レースが存在しています。
これらの賞レースにはその業界の人たちからしたら明確に、一般視聴者からは漠然と黄金期と衰退期の認識があります。
盛衰の模様を特に色濃く見られるのは「日本レコード大賞」です。
黄金期は1970~1980年代、衰退期はその後現在(2020/1)までです。
黄金期のを形作った文化の背景には、流行の音楽の変遷とテレビチャンネルの増加に伴って発達した”テレビ越しの音楽文化”があります。
そもそも音楽賞レースはテレビ局や新聞社などの大手メディアが個人では手が出ない規模の資本を投入して発足されたものばかりです。
“テレビ越しの音楽文化”はテレビ局によって系時に生み出されたと行っても過言ではないと思います。
様々な音楽賞レースがそれぞれの運営理念に基づいた賞の決め方で様々な賞を授与していました。
各賞は時代に合わせて変化し、その時々で権威の強くなるような名称で定められていたのではないかとその名称から推測できます。
いかに視聴者を引きつけられるかによって視聴率が変化し、視聴率によってスポンサーの出資額が変化します。
資本主義ですから。
もちろん発足当初は純粋に音楽文化の発達のためを思った思想に基づいて運営をしていたと思います。
しかし次第にその本質的理念は薄れて行ったのではないでしょうか。
いかにして権威を確立するか、いかにして資本を集めるかを第一に考えるようになったのです。
これは全くもって悪いことではありません。
むしろ資本主義の世の中ですから、真っ当に正しいと言えます。
しかしながら、このような資本目的の理念は音楽文化には合わないようなのです。
次第に著名ミュージシャンが受賞を辞退するようになっていったのです。
事務所やレーベルなどの力関係に依存していると黒い噂が出回るようになったのです。
そうして次第に権威と音楽賞レース自体の衰退していったのです。
新しい音楽賞レースのあり方の提案
とは言え音楽文化発達にはまだまだ賞レースによる権威による評価は必要であると考えます。
ただ、これまでの”テレビ越しの音楽文化”ではきっとうまくは行かないでしょう。
時代は流れネットの時代になりましたから、個人が小規模のメディアを立ち上げることができるようになりました。
当ブログもその一つです。
そしてそれがごく当たり前のこととなりました。
これによって”分かる人にはわかるコアな音楽文化”が多様性を持って無数に生まれることになったのです。
大きな組織が大きな権威を持って評価しきれない膨大なジャンルの音楽を判断しなければならなくなったのです。
そしてそれは素人頭でもわかる明確な無理難題であるのです。
だからこそ新たな音楽賞レースを持ってして新たな権威を発足していくべきなのではないかと考えるわけです。
小規模でも認知度は低くともYouTubeにて音楽賞レース番組を運営し少しずつ権威を確率していくのが良いと思われます。
もちろん本質は音楽です。
資本ではありません。
小規模だからこそできる運営理念です。
良い音楽を狭い範囲でも少しの影響力でも、少しずつ世間に発信するメディアを作るべきなのです。
現代にはネットの口コミなるものが存在します。
この口コミは想像以上の力を秘めています。
広告を一切打たなくとも、良いものを少しでも世間に出し続けていけば次第に広まっていくのです。
私はこれをAppleマーケティングと呼んでいます。
生産者側がとにかく良いものを突き詰めて生産発売し、顧客の口コミでその良さが広まって行くのです。
4G回線の配備とSNSの普及による宣伝経路の変遷が新しいマーケティングを可能にしました。
ニーズを第一に考える「4Pマーケティング」の手法を取っていたらiPhoneは生まれていなかったに違いありません。
同じことが音楽の権威構築にも言えると思います。
受賞歴に依存しないミュージシャンの価値とは
YouTubeを用いた小規模な音楽番組発足は視聴者の思考力を高めることにもつながると考えています。
“テレビ越しの音楽文化”の時代から現代まで変わらずコアな音楽ファンを除く一般大衆リスナーは、誰かが良いと言ったものを良いと捉えます。
受賞歴を見ればどれだけすごいのかを簡単に楽して判断できます。
(それにしても”すごい”とか”やばい”という言葉は文法の中で魔法のように意味が変化してしまいますね。)
思考停止した一般大衆は音楽を能動的に選ぼうとしません。
テレビ・ラジオでよく聞くから、出先の店内で流れているからなど、とにかく受動的な価値発見の方法を取っています。
YouTubeを用いた小規模な音楽番組はそうは行きません。
口コミによって広まっていく過程に、リンクをクリックしたり検索窓に番組名を入力したりと、能動的な行動がとなうからです。
音楽番組を自ら求めようとする意思が芽生えていることの照明になります。
コアな音楽ファンとまでは行かないまでも、その時点で音楽ファンの端くれではあるのではないでしょうか。
この数を増やしていくことが大切です。
そして次第に思考停止している受動的な国民が減少し、自分の頭でしっかりと考えられる人が増えていくと思います。
上の指示に何の疑いもなく従うのではなく、自分の頭で考えて心底納得してから従うようになって欲しいのです。
そのためにYouTube音楽番組を流行らせなければならないのです。
まとめ:芸術の発展には権威が必要不可欠
なぜここまで音楽音楽と音楽文化の発展にこだわるのかについて説明させてください。
以前別の記事でも述べましたのですでにご覧になられた方は飛ばしていただいて構いません。
資本主義もとい貨幣至上主義の中で私たちは生活していますが、私にとって貨幣は至上ではないのです。
私は幸せこそ至上なのです。
幸せの価値観は人それぞれですから、各の価値観に沿って当てはめて考えていただけると幸いです。
お金がたくさんある人こそ格好よく美しく強く幸せである考えに疑問を抱いています。
私は格好よくも美しくも強くもなくとも、自分のやりたいことをやりたい時に好きなだけ熱中できることが幸せなのです。
そして私は幸せに成れることを知っていますし、すでに幸せですし、これからもこの幸せを追い求めて行こうと考えています。
この考え方は正直利権者層からしたら都合の悪い考え方です。
利権者は骨の髄から貨幣至上主義でしょうから、そうでない人とは相容れないのです。
この思想が広まってしまっては貨幣が集まりにくくなり、格好よくも美しくも強くもなくなってしまうのです。
だから私たち一般大衆は思考を停止させられるような教育をうけ、思考停止した社会に生きていく選択をさせられているのです。
と文章にしたところでどれほどの影響力があるでしょうか。
この言葉だけで人はそう簡単に変わりはしません。
もっと洗脳的な盲目的な手法を取ってサブリミナルでも構いません。
絶大な効果のある効果的な方法を選ばなければなりません。
そうでなければ国民の目はいつまでも覚めないままです。
そこで私は音楽を選びました。
音楽は一般大衆がちゃんと生活に取り入れている文化の一つです。
ポップス音楽だけは芸術の中でも特にしっかり根付いています。
この根付いている文化を上手に利用して、思考停止国民を再起動できないかと考えたのです。
もちろん私の生きている間にこれを成し遂げようなどととは考えていません。
私の次の世代かその下の世代に渡ってじわじわとその影響を広めていけたらと考えています。
言論統制の敷かれつつある日本のメディアやネットを掻い潜る文化は音楽だけです。
思考停止国民を再起動するための言葉や音を秘めた音楽を、ポップス音楽文化界に投下するのです。
そしてその思想をうけつぐ人を少しずつ増やし、自分の頭で考えられる人が増えていけば私の人生のテーマを真っ当できたとそう思うのです。
自分の頭で考えることができれば、自分の幸せが貨幣に依存しているかどうかわかるはずです。
それでは。
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