音楽における再現性が芸術的。

作詞作曲編曲などの音楽に関わること全般を生業としております、村脇でございます。詳細が気になった方は画面右上らへんに出てくるであろうプロフィールをご覧くださいな。

今回のテーマはこちら!

音楽における再現性ってめっちゃ芸術的じゃね?!

ということで、とても簡単に考えてみようと思います。 それではどうぞ。

目次

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再現性とは

再現性とは、ある事象がテーマとなった時に、それを成り立たせていると考えられる要素要因還元したときに、同じ要素や要因を条件として整えた時に、再びまったく同じ事象が起こる性質をそなえていること。(wiki:再現性)

Wikipedia先生にはこう記してあります。簡単にいうと、何回も同じことができる!ってことですね。今回はその再現性を音楽に焦点を当てて考えてみます。

音楽(テーマに当たる)における再現性を簡単に理解するには、「歌ってみた!」や「カバーしてみた!」を想像するのがいいでしょう。例えばサザンの真夏の果実を歌ってみた!という人は何人でもいるでしょう。カラオケでは1日になんども再生されていることでしょう。これが再現性です。

また、ベートーベンが作った曲を私たち現代人が、本人の生演奏で聞くことは不可能ですよね。しかし、楽譜として音楽が残っていたため、本人以外の人間がそれを再現すべく演奏することができたのです。

このように誰かが作った音楽を本人以外が演奏できることが再現性そのものということです。これは大昔から続くことであり、人類の歴史にとってもとっても重要なことです。とってもね。

音楽の残り方は楽譜だけではありません。現代には音楽をそのまま音として残す技術があります。昔は文字や記号に記す他に手段がありませんでしたが、これから先は本人の演奏を3Dで再現できる時代がやってくるかもしれませんね。

となってくると、残り方や残し方よりも大切になってくるのが再現する側です。これについては次のセクションでお話しします。

村脇優が感動する芸術

私が23歳(2018年)でもっとも感動した音楽作品は、ある音大生の作曲した打楽器ののみの楽曲でした。某日名古屋で行われた演奏会でそれは発表されました。もちろん作曲者と演奏者は別の人です。

その楽曲が「初めて」この世に姿を表した瞬間に私は立ち会ってしまったのです。もちろん練習の段階で演奏はなされていますが、音楽は演奏者と音楽とそれを聴く客がいなければ成り立他ないものと私は考えています。そのために「初めて」とあえて述べています。

その曲は例によって楽譜として残り、なんども再現が可能なのです。わざわざここで話題にするほどのことなのか、と疑問に思うかもしれませんが、これはカラオケやカバーのように簡単な楽曲ではないという部分が話題にするに値しているのです。

衝撃でした。乱雑に置かれた打楽器(主に太鼓系)を無造作に連打したり、ゆっくり叩いたりして、時には優しく、そして何かを思い出したように強く叩く場面もありました。その繰り返しのようで、繰り返されない演奏に私は再現性を見出せなかったのです。

演奏者は演奏前、几帳面に楽器を並べなんども自分のポジションを確認していました。私はその世界に数センチも、いや数ミリも入り込むことができなかったのです。

私のようなクラシック音楽初心者野郎が言ってはいけませんことは承知していますが、言ってしまえば大学生です。卵ですよ。演奏家、作曲家の。そのレベルでさえ、私は手も足も出ない芸術性に驚嘆したのです。

ここに私は演奏する側(再現者)の技量の大切さを知りました。再認識したという方が正しいかもしれません。これからの時代ではオリジナルがしっかり残っていきます。生演奏に近い状態で残ることは間違いありません。

大切なのは再現者です。

まとめ

これはクラシック音楽よりもポップス音楽向けの言葉です。時代が目まぐるしく回る中、流行と共に1曲1曲に対する時間がどんどん短くなります。作る側も聴く側も同様のことが言えます。先週はやった曲は今週流行っていません。

そのような背景を背負って私のような作曲者は戦わなければなりません。私はだれもが再現したいと思えるような作品を世に出せるように精進しなければならないと悟ったのです。そしてだれもが再現できないものでなければなりません。

これを持って

音楽における再現性がいかに芸術的かを簡単に述べた文章を終わりとします。

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