音楽家の村脇優です。
今回は
音楽家マジョリティな世の中の想像
と言うテーマでお話ししていきます。少し難しいテーマですが、なるべくわかりやすくまとめてみました。ぜひ最後までご覧ください!
目次
音楽家マジョリティとは
マジョリティ(英:majority)は、本来、「多数者」・「多数派」を意味する英語の言葉。
出典:Wikipedia
音楽家マジョリティとは、音楽をやっている人が多数派の世の中のことをさす言葉です。私が勝手に言い出しました。世間でこのような言葉を聞いたことはないですww。
音楽メジャー業界でバカ売れしているミュージシャンは、音楽をやっていない人からの認知と、一定以上の人気があります。この状態を作り出すためにマーケティングを行っていくわけですが、段階的にターゲットが変わっていくのが一般的です。はじめは「音楽ずきのコアなファン」を獲得し、次第に「音楽に受動的な一般客層」を獲得していきます。
結局おおくなるのが「音楽に受動的な一般客層」です。これは非音楽家マジョリティだからです。日本において、音楽家とそうでない人の数は比べるまでもなく、音楽家の方が少ないです。この世の中でバカ売れするためには「音楽に受動的な一般客層」をターゲットにしたマーケティングをしていかなくてはなりません。
そこで、音楽家マジョリティな世の中になった場合を想像してみようというのが今回の記事に主旨です。
音楽をやっている人の方が多い世の中
音楽家マジョリティの世の中ではきっとライブが盛んに行われるでしょう。
カフェに入ると音楽家がBGMを演奏し、イベントもそこら中で行われているでしょう。どれも低料金で、むしろ入場無料ばかりになるかもしれませんね。街灯が夜の街を照らすように、音楽家の演奏が街のスピーカの代わりをするでしょう。
地元で新しい音楽家が大学を出たとなれば、”今年はどんな奴が出てきたか”とみんなライブに出ていくでしょう。音楽のリテラシーも高く、スマホでTwitterを見るように音楽理論の話をするかもしれません。
家には必ず楽器があり、町中に楽器屋さんがあります。駅前では常に音楽家が演奏活動をしていて、それを評論する者が多くいます。SNSも音楽の投稿ばかりになり、多様化し、指数関数的に発展するでしょう。
騒音の問題も出てきますから、建築の様式も今の日本家屋とは全く異なるものになるでしょう。音楽家が多い文化であれば、街に溢れる音の大きさも大きくなり、音の大きさに寛容になるでしょう。
音楽家専門の医者や、スポーツクラブやジムができたり、学校教育で音楽教育が盛んに行われているに違いありません。
クラシック音楽とポピュラー音楽の隔たりも薄くなり、より親しみやすく音楽に関する全ての垣根は常に取り払われるべきものとして捉えられるでしょう。指示する音楽家によって派閥が生まれたり、争いが生まれたりして、音楽は必要ないものだと言われたりするかもしれません。
音楽家向けのライブイベント
そもそもこの思想は「音楽家向けのライブイベント」の構想から始まりました。
”一般向けに一般向けに”という外部の意見を取り入れて作った音楽が良いものである可能性が低いのは、音楽をやったことがある人からしたら容易に想像が着くと思います。
しかしながら、ライブは”一般向けに”やるのが普通です。マジョリティです。これを疑って見ることにしたのです。
「一般向けにライブをする」とはどういうことかを整理すると、日本国民の文化に染み付いているような音楽ジャンルで、ユニバーサルな演出、親和性の高いMC、テレビで放送されてライブに行ったことがない人でもどんなもんなのかわかるアレをやることでしょう。
ドレスコードのように「音楽家」の入場制限をかけます。制限の仕方は現代的にいきましょう。SNSでオリジナル曲を発信しているか否かです。過去に音楽発表に関係する捜索活動をしたことがある人も入場可能にしたいところですが、音楽老害は排除の姿勢でいきましょうww
そうすると、ステージにも、フロアにも音楽家だけの空間が出来上がります。この状態で、音楽を演奏するのです。音楽家はライブに楽しみに来ているわけで、演奏する音楽家がお客さんを楽しませようとしていることも理解しています。反対に演奏する音楽家もライブを楽しもうとしているお客さんを楽しませるための演出を心がけることを理解しているでしょう。
この環境であれば、きっと素敵な空間が最も簡単に実現するのではないかと想像したのです。
互いに良いものを生み出そうとする姿勢がそこにあるからです。
芸術作品への理解は一般客層には難しいことです。音楽で売れてるとか売れてないとかの前に、”音楽で食べていくのなんて一握り”という思想なのですから。
音楽はそういうものではありません。音楽を使って稼ぐこともできるだけです。音楽をやったら稼げるようにならないといけないわけでは決してありません。
音楽教育との接点
音楽教育は小中高とされています。私も高校1年生まで音楽の授業を経験していました。
音楽の授業で習ったことはほとんど今の音楽の仕事に生かされていません。あの授業はセラピーのようなものです。大前提として、音楽家を多く輩出しようとする姿勢がないのです。
音楽教育と読んでいいレベルではないのです。
だからと言って、目まぐるしい速度で移り変わるポピュラー音楽の流行特性を鑑みると、とてもではありませんが体系的に学習することが可能とは言えません。クラシック音楽は発展速度が事実上現代音楽の分野以外は発展していませんから、体系的に学ぶことができると言えます。「強いていうなら、クラシック」これが今日本でできる音楽教育の限界です。
しかも日本ではクラシック音楽の文化がそもそも根強くありませんから、これを流行らそうとするのはお門違いです。
今日本に必要な教育は「ポピュラー音楽を芸術と捉え、様々な視点から音楽を捉えられるようになるための体系的な学習」です。間違いありません。聴き手の耳の良さとリテラシーが作り手の腕をあげるのです。
まとめ
芸術の本場アメリカの市場では、音楽の権威が多く存在します。グラミー賞は中でも著名な権威ですね。日本にあるのは日本レコード大賞くらいでしょうか。レコ大もアメリカでは通用しないでしょう。
2018年日本で俳優の星野源さんが音楽家としてもブレイクして一番ヒットしているころ、アメリカではブルーノマーズさんがたった9曲入りのアルバムで世界的な大ヒットを記録しました。来日した際に、星野源さんとブルーノマーズさんの対談が地上波で放送されましたが、並ぶその姿は日本の音楽業界の権威の弱小さを日本全国に知れ渡らせているだけでした。
アメリカでは地域によって文化が違います。ロスで1位のミュージシャンはNYで1位は取れません。逆もしかりです。これは聴き手の耳が肥えている事を示す事実に他なりません。NYの甘いラップミュージックにロスの聴衆は傾聴しないようです。
耳が肥えているアメリカでは常に最先端が生まれます。10年経ってやっと日本に流れてくる感覚です。J-POPは素晴らしいですが、ガラパゴス的で中途半端にアメリカ的です。それも10年遅れの。
私は日本語の五十音を使った音楽が大好きです。とても面白いです。子音の少なさや、音節の多さは独特の響きをもたらします。電子的かつ持続的な音をどのようにして区切るのか。区切っても区切らなくても良い響きです。その特徴からエレクトロミュージックとの愛称は抜群です。ブルースやソウルとは相性が悪いですね。不思議な言語です。
文法も難儀で、ネイティブですら常に間違いと隣り合わせです。そして自由です。
こんな言語圏を音楽家マジョリティで包み込めたら、なんて面白いことになるのか。想像してニヤニヤしてしまいます。気持ち悪いですね。たまには皆さんもニヤニヤしてみてはいかがでしょうか。