思想

しゃもじの存在意義

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あれ、これスプーンでよくね。

ある日突然、その思考は始まった。

炊飯器で2号の米を無心で研いだ後、早炊きのスイッチを押した。その間に簡単なおかずを作る。今日は豚肉と野菜を炒めよう。また無心で野菜を刻み、肉を食べやすい大きさに割いていく。

あったまりはじめたフライパンに油を垂らし、弱火でじっくりと食材を炒めていく。20分の炊飯の時間とぴったりにするためだ。同時に洗い物をしようか迷った。同時に洗い物をすると全体の効率が良いことはわかる。しかし、効率のことが大好きな私が唯一効率を無視してやりたくないことが洗い物だ。何故だかわからないが、かなり洗い物が嫌いなんだ。だから洗い物はしない。この時ばかりは効率など関係ない。今からは20分間は私のものだ。私が思考を空っぽにして良い時間なのだ。洗い物ごときに邪魔されてたまるものか。

20分ぼーっとしているこの時間が私は好きなんだ。人は誰しも、何も考えなくても良い時間というものが必要だと思う。フライパンをひたすら眺める。私の思考は次第に消えていく。

あっという間に20分がたった。米も炊き上がった。皿には豚肉野菜炒め生姜味を盛り付け、茶碗にはお米を盛る。この時も思考はなく、惰性で動いている。しかしその時、突然雷が落ちた。右手の中にあるしゃもじに対してある思考が舞い降りてきたのだ。

「あれ、しゃもじってスプーンでよくね。」

しゃもじの存在意義を疑う思考だ。私は今までなんの疑いもなしにしゃもじと向き合ってきた。生まれて初めての感覚に私は驚き、そしてその刺激を気持ちいと感じていた。

でかいスプーン

しゃもじは炊飯器から茶碗に米を移動する時だけに使う。出番は1日に多くて3回までだ。(オカワリはしないものとする。)しかも、使いおわたあとは毎回洗い物としてしっかりと台所に鎮座する。洗い物は嫌いだ。

しゃもじではなく、大きめのスプーンではどうなるだろうか。考えてみた。炊飯器から米を取り出す際に、しゃもじよりも少なくしか取れない。これは効率が悪い。しかし、出番は2度ある。しゃもじのポジションを行なったあと、食卓でご飯を口に運ぶものとして使えるではないか。洗い物が1つ減る。

しかし、スプーンで全てのご飯が食べられるだろうか。今日のおかずは豚肉野菜炒めだ。頑張れば食べられないこともなかろうが、箸に敵わないことも明確だ。ということは、スプーンだけでなく箸も食卓に登場することになる。

これでは洗い物の数が同じだ。同じどころか箸は2本で1セットだから、1つ増えているではないか。くそう。

では食後にヨーグルトを食べることとしたらどうだ。スプーンは初めから登場を強いられている。これならば米を持ったスプーンであとでヨーグルトを食べれば良い。いや、米を守るスプーンは比較的大きなものを用いている。ヨーグルトを食べるスプーンは小さい方が美味しいに決まっている。しかも米がスプーンに付いているだろう。これは採用すべきではなさそうだ。

やっぱしゃもじ欲しいかも

もうすぐ思考に決着がつく。

私の中の洗い物嫌いのせいで「しゃもじがいらないかもしれない」という思考が芽生えたわけだが、そこを許してみるとどうだろう。洗い物が増えても良いならば、米を茶碗に盛る効率の良さが大切だ。箸もスプーンも使うことになるのであれば、そのどちらかで米を炊飯器から茶碗い移動させれば良いと思ったが、わざわざしゃもじを使った方が早い。やはり効率が勝ってしまったようだ。

効率のことが大好きな私の思想には、洗い物嫌いくらいの小さな抵抗エネルギーでは到底勝つことができないようだ。

結論。しゃもじは要る。

盛り付け

盛り付け終わると同時に、結論が出た。

生姜の味付けでほんのり甘い香り。今日も美味しく晩御飯が食べられそうだ。

そんな時に、雷鳴が轟いた。新たな思考が舞い降りた。

「豚肉炒めを米にのせたら、洗い物一つ減るのではないのか?」

今日も頭の中は忙しい。また米をたいてフライパンを眺める時まで繰り返される思考に耐え抜かなければならないようだ。

戦いは続く。

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