「音楽家目線で」というと格好つけすぎている気がするため、”作曲が趣味の音楽好きが伊坂幸太郎『チルドレン』を読んだらこういう感想を持ちますよ”という内容に仕上げたい。以下感想文。
一言でまとめてくれと言われたら「陣内の乱暴な性格と音楽への信頼、登場人物の因果とも思える繋がりを楽しむ物語」と言いたくなる一冊である。
この物語での音楽の位置付けは最終手段の象徴であり、魔法のような力を秘めているようにも取れる。例えば冒頭の銀行ごうとの物語においての音楽は、強盗犯も人質も巻き込んで荒野に突如現れる泉のごとく一瞬の安寧を生み出したような描写がされている。さらにクライマックスのライブハウスの場面では、陣内の所属するバンドの音楽が人々の繋がりと営みをつなぐものとして描写されている。物語の始まりと終わりに音楽を登場させることで展開のなかにも軸を感じた。
私にとって私が普段耳にする音楽は参考資料やお手本としての意味合いが強い。音楽作品を生み出す上で音楽を聞くことよる情報収集とインスピレーションは作品に大きく影響を与えるからだ。物語に登場する音楽と私の音楽に対する考え方を比較すると全く別のもののように感じる。物語では象徴、私は資料とと捉えている。しかしながら本を辿ればおそらく誰もが「好き」という感情から音楽を楽しむのではないだろうか。その感情に素直になれば私も音楽を何かの象徴として耳にしていると言える。逆に陣内も自覚なしに参考資料として音楽を聞いていることがあったかもしれないということが、カバー曲を自分のバンドでアレンジしている箇所から想像ができる。
人々の変化し続ける営みのなかに一見無関係に思える人と人が意外な点でつながっているという仕組みから「諸法無我」を感じる。作者は仏教に熱心なのかと思うほど強く散りばめられている物語であると感じた。そしてそれを面白いと感じた。現実にも「世間は狭い」という慣用句が生まれるほどに人々の繋がりは意外な形をしている。さらにそれに気付いたところで関係自体に実態はないのである。人と人の繋がり「縁」は全く不思議なものである。全世界にこれほどの人が生きているのにも関わらず、必ず誰かと誰かが出会い、誰かと誰かは出会わないのである。舞台となっている仙台においてもそれは言えるだろう。
私たちはいつも気を遣う。例えば電車で隣の席に座った他人は初対面かつ今後会うことはないであろう人間だ。もしあったとしても次にあったときもきっと初対面であろう。忘れてしまうのだ。RPGで言えばMOBである。しかし、私たちはいつも気を遣う。街中で周りを見渡すと人がいる。しかしそれはいないのと同じだ。精神としての存在は目で見ただけでは量れない。しかし物質としての人間はそこにいる。この関係は目の見えない永瀬が自分のいる世界を実態として捉える方法に通ずる。私たちは気を使いすぎる。
時間の概念を置き去りにしたような短編集の配置に感じるがしっかり起承転結は守られている不思議な展開をする。これが特に私を楽しませた要素であった。読書によって場面を目の当たりにしたような感覚になるが、これがあるおかげであくまでも小説の内容として脳内にしまうことができる。これは作詞にも用いることができる技法であろう。